4億7千万円の除雪費補正

活動日誌
02 /14 2017
 昨日、ファックスで通知があり、「除雪費が足りなくなりそうなので、4億7千万円の補正予算を専決で計上した」とのことです。
 先月13~15日の降雪が、昨年の3倍以上にのぼり、その後の排雪等に費用がかかったこと、今月11日以上の降雪でも除雪費が架かる見込みであることなどによるとしています。
 しかし、率直なところ、少々疑問なところもないではありません。確かに、昨年と比べると降雪は少々多いとは思いますが、それでもいつもの年と比べるとかなり少ないというのが実感ではないでしょうか。少なくとも補正予算で補てんするほど除雪費が足りないということには、違和感を感じます。
 当初予算は、今年が23億3千万円あまり、昨年度が23億1千万円あまりですが、昨年度の決算では22億5千万円あまりとなっています。なお、一昨年度の当初予算は22億円あまりです。これを見ると、決して少なくない予算に感じられます。
 いろいろと事情もあるのでしょうから、詳しくは今後決算の中身を見る必要がありますが、率直な感想として、いかがなものかと感じた次第です。

20170214a

安倍流「新しい国」

活動日誌
01 /24 2017
 敵を知り、己を知れば、百選危うからず。孫子の言葉ですが、こと現政権に関しては、知りたいと思ってもなかなか正確に知ることができません。なにせ、本人や周辺はウソばっかりついていますし、マスコミはまともに報道してくれません。今日のしんぶん赤旗1面のコラムにもあったように、ひどいマスコミになると、今そこで起こっている事実を完全にねじ曲げて、正邪を逆に伝えるというようなことまでしているのが実態です。
 そうした中、安倍首相の言う「新しい国」とはどんな国なのか、わかりやすくまとめたのが、21日のしんぶん赤旗の記事です。
 これを読めば、戦後最悪の政権がなにを狙っているのか、良くわかります。ぜひご覧ください。

20170124a

悪いのは誰か ―電通事件―

活動日誌
01 /21 2017
 私のところには、さまざまな新聞やニュースレターなどが定期的に届きます。
 その多くは、議会活動を進める上でたいへん学ばされるものであり、一本一本の記事に書く人の研鑽や苦労、深い考察を感じています。ただ、ときとして、「ちょっと待てよ。それで良いのかな?」と感じるものもあります。
 最近も、ある施設のニュースレターに掲載されていた施設長さんのエッセイで、ちょっと気になるところがありました。
 次のようなものです。
 電通事件のことで触れるとするならば、気になっていることがあります。「サービスの過剰品質化」です。電通は企業体質が大学を卒業したばかりの女性を自殺に追いやったと報道されていますが、私はそのことに少々疑問点を感じています。広告代理店にとって顧客は「神」だとされています。まさに「お客様は神様です」の世界です。CMの撮り直しを急遼顧客側から要求されたり「あの女優の帽子の色が気に<わない」といったリクエストに応えようと努力したり、「明日の朝までに何とかして」と勤務時間外に連絡が入ったりするなどの無茶なクライアントの要求が背景にあったことを私たちはあまり気に留めません。電通の「鬼十則」が批判を浴びていますが、なぜあの企業が「鬼十則」の考え方に至り、それが長い期間を経て大事にされてきたかの背景を見つめることも同時に行なっていくべきだと考えています。だとしたときに、電通をあのような企業体質にしていった責任は企業側だけの一方的なものであったかを考えます。電話やメールの向こうにいる誰かは自分と同じ人間であり、愛する家族がいたり、半年も前から計画している旅行を楽しみに金曜日を過ごしている誰かだったり、家族に介護を必要とする人や病人を抱えているかもしれないし、様々な事情を抱えながらこの社会の中で生きている-人の人間に過きないのだという感情の欠落があったのではないかと思うのです。それについて過剰な競争にやすやすと乗り込み、終わることのない異常なレースに参加した企業体質が今、電通に問われていますが、私自身に引きつけて考えると、私だって同じようなことを職員に課していた覚えがないわけではありません。また-人の消費者として「明日でもよさそうな事」に、「何とかお願いしますよ」「お金払ってるんだから」と迫ったサービスのユーザーとしての経験もあります(少なからず多くの人たちも似たような経験をしたことがあると思います)。こうした「過剰品質」について我々は立ち止まって、それは現代に必要なことなのかどうかを確認する時期にきているようにも思います。

 なるほど、そうした視点でものを考えることも大事かな、と最初は思いました。おっしゃるとおりのオーバークオリティは日本のものづくりの体質にしみこんでいるというような見解も聞いたことがありますし、指摘の通り、消費者の側から要求する過剰サービスもないとは言えません。
 しかし、そのことで、ある企業が社員を働かせすぎることを弁護することになっては、この企業を免罪することになりかねません。
 確かに、電通はクライアントの過剰な要求に応えようとして、その結果、社員を過労死させるほど「虐待労働」させたのかも知れません。しかし、そこには、「クライアントの要求に応えることだけが善」という考えしかなく、つまりは、「クライアントの要求に応えて利益を得ることだけが善」という考えに、頭脳が占拠されているということではないでしょうか。しかも、ここで「利益を得る」主体は誰かを考えると、それは社員たる労働者ではなく経営者ですから、言い換えると、経営者は、「スポンサーたるクライアントに奉仕するために、労働者からは命を含めてすべてのものを収奪する」という営みをしているということになります。
 これは、ある意味で、「資本主義の本来の姿」ということかも知れません。しかし、資本主義の枠内でも、労働者の人間性を守り、健康で文化的な生活を保障するように国民すべてが努力を重ねてきたのが、現代社会ではないでしょうか。電通は、まさにその現代社会の流れにまっこうから逆らい、マルクスが生きていた19世紀のイギリスのような社会をめざしている実に犯罪的な企業であると言えるのではないかと指摘したいのです。
 また、このエッセイでは、こうした過剰サービスを求める風潮があたかも多くの国民の暮らしの中から生み出されるものであるかのような書き方をしているように感じられますが、だとすればとんでもないことです。一般庶民は、こうした企業に対して、「過剰サービス」を求めたくても、そんなことはできっこありません。ほとんど門前払いされるのが関の山です。
 こういうと、例えば「コンビニなどでは、一般庶民の求めに応じた過剰サービスが行われているではないか」とか、「日本製の家電製品は、一般庶民が求めるからオーバークオリティな製品ばかりではないか」という人がいます。しかし、これは詭弁です。コンビニの本部にしろ、家電メーカーにしろ、「より利益が上がるから顧客の動向に応じたサービスやモノを提供している」に過ぎません。庶民が求めるからではなく、儲けにつながるからなのです。
 そのことを見ずに、過剰サービスの責任を庶民に押しつけられてはたまりません。
 要は、企業としての「利益追求のみを求めるシステム」こそが問題なのであり、その周辺的影響として表出されているように見える「庶民の求め」に原因を求めてはならないと思うのです。
 昨今の社会には、声の大きな勢力が発する嘘と偽りが大手を振り、本質が見えにくくされるような風潮があります。安倍首相やトランプ大統領の発言がその最たるものです。私たちは、そうした嘘や偽りにだまされることなく、ものごとの本質を見極める努力を不断にしなくてはならないと考えますが、この電通事件でも、「本当に悪いのはだれなのか」「こんな悲しい事件をなくすには、なにをどう直すべきなのか」を、しっかりと見極めていくべきだと思います。

ボランティアに頼るとは!?

活動日誌
01 /18 2017
 市は来年度に向けて、「交通事故、犯罪、災害から自らを守る能力や知識の習得、向上を図るため、交通安全、防犯、防災に関する教育、啓発活動を行う」ことを目的に、“地域安全支援員”制度を創設する計画です。人数は全市で22人。これは、各中学校区から1人という計算です。
 上越市では現在、交通事故を防止するための交通安全思想の普及や交通安全の保持等を行う“交通安全指導員”制度があり、47人の指導員が活躍しています。計画では、“支援員”22人を創設する代わりに、この47人の指導員制度を廃止するとしています。
 市は理由として、①制度創設時と比べ、道路環境などが変わり、交通事故は件数も死傷者数も大幅に減少している ②見守りが必要な場所は増え、交差点だけでなく歩道や路側帯で児童が多数被害に遭っている ③市内で約5,800人の交通ボランティアが活動している といったようなことを挙げています。
 しかし、これまで多くの交通安全指導員は、交通安全教室での自転車の実技指導のほかに、朝夕の登下校の際に交差点などで児童と直接ふれあいながら、実地で交通安全への考えを指導してきました。こうした地道な活動が、子どもたちに大きな影響を与えてきたことは確かです。こうした重要な役割を果たしてきた指導員制度をやめ、これまでの半分以下の人数の支援員制度でやっていけるのでしょうか。
 また、市の言い分は、地域に多くのボランティアが生まれてきているので、市の制度は廃止してもよいのだというようにも聞こえます。
 しかし、市民の手によるボランティアは、あくまで行政が行う施策を前提にしたプラスアルファです。それを当てにして市の制度を廃止するのは、市民に責任を押しつけるようなものです。
 最近、「自助・共助が大切」といったようなことが行政からも言われます。もちろん、市民同士の自主的な助け合いの活動は非常にすばらしいことです。最近のいろいろな災害の際にも大きな役割を果たしています。
 しかし、それを、行政自らがそれを当てにして責任を放棄するようなことを主張してはなりません。そもそも行政にはしっかりとしたサービスや支援をしてもらうために、貴重な税金を委ねているのですから。

国際交流とは

活動日誌
12 /14 2016
今議会では、ある議員が、ドイツとの国際交流について質問しました。
 そこで考えたことがあります。
 国際交流とは何かということです。
 その議員は「スポーツを通して交流し、その交流を継続したい」としていますが、はたして何のためでしょうか。同氏は、さまざまな交流を通じ青少年が国際交流を経験することで、国際感覚を養い、人材の育成を図りたいとしているようです。まことにまっとうな主張であろうと思いますが、もう少し進めて考えてみたいと思います。
 ここで、国際感覚を養うことが、国際交流の一つの目的として妥当であるとしましょう。問題は「国際感覚」とはどんな感覚なのかという点です。
 本質的には、「国際感覚」とは、「世界には習慣・風俗・文化・宗教・歴史の異なる多くの国や地域があることを知り、その一つひとつを認め尊重する姿勢や態度」といえるのではないでしょうか。現代社会では、その「認め、尊重する」という姿勢が欠如し、自国の価値観のみを正当化するあまり、その価値観に合致しない国・域地域を「野蛮」などと決めつけ、その存在を否定するがごとき態度に出て、挙げ句の果ては武力攻撃まで行うような姿勢が多くの先進国といわれる国の実態です。
 もちろん、価値観や習俗の違いといっても、人類普編の原則を逸脱するようなこと、例えば、両性の平等を否定し、女性の権利を抑圧するようなことを行っている国や地域は徹底的に批判、叫弾されるべきであり、黙視すべきではありません。しかし、その解決のためには、国際世論で包囲することや、その国や地域の中で解決のために努力している勢力への励ましや支援など、間接的な手段によるべきであり、内政干渉になるような手段を取るべきではありませんし、ましてや武力で制圧するなどということはとうてい許されません。
 いずれにしても他国や他地域を対等な立場で認め、尊重するという姿勢が大事であり、相手を大切にするという感覚こそ真の国際感覚であろうと思います。
 さて、こうして国際感覚を身につけることを含めた国際交流の目的とは何でしょうか。
 単に「外国人と語りあったり、共に同じことをしたり、共通の時間を過ごしたりというのはあまりにも幼い考えですので、そこから一歩進めて他国、他地域の異なる文化に触れて、知って、理解し、尊重することを前提に、自国の文化、習俗との融合を図り、自国で不足していること、不十分なことなどの改善に結びつけられるよう学ぶということではないでしょうか。仲良くなればそれで良いという段階をのりこえて、互いに文化を高めあうということこそ、国際交流の究極の目的であると思うのです。
 ドイツとの交流で言えば、私自身はドイツについて詳しく知見しているわけではありませんので断片的にはなりますが、これまで見聞きしてきたことをあげるだけでも学ぶべき点が少なくありません。
 例えば、第2次大戦の戦争責任を徹底的に追及し、止むことを知らずに軍国主義・全体主義の撲滅を希求する姿勢があり、これだけでも、真摯に学ぶべき点であると思います。他にも、学ぶべき点は多々あります。学校は伝統的に授業は午前中のみで、午後は、子どもたちはそれぞれの地域でスポーツをはじめとした各種の文化的な活動にいそしむというのが日常であるといいます。また、環境に対する考え方もかなり進んでおり、各種の商品の容器はリユースが徹底されいるほか、脱原発、自然エネルギー活用への政治姿勢も大いに学ぶべきです。加えるならばベルリンでは1990年代の壁崩壊の後、その撤去も含めて土木工事は遅々として進まなかったそうですが、これは日常生活に支障のないことは後にまわすという考えと、土木工事業者が日本に比べてかなり少いことが背影にあるとのことです。日本では、ゼネコンと政治が結びつき、公共事業の名目で次々と環境を破壊し、税金を食い物にしているのと比べて、何と大人なのだろうと感じる一面です。ではどんな業者が多いのかというと、ドイツ留学経験のある人によると、それは旅行業者だそうです。一般市民から政治家まで含めて、ドイツ国民は、1年のうち2か月は有給休暇が保障されており、こぞって旅行をするなど、バカンスを楽しむそうですが、そのためのサービス事業が一大産業として確立しているとのことです。
 何ともうらやましい話ですが、これは視点を変えてみると、それだけ働く人が大切にされ、会社のために働くのではなく、一人ひとりの国民の文化的な暮らしのために働くのだということが、まさに実現している姿が見えてきます。
 こうした異文化をこそ、しっかりと学んでくること、そしてそれを自らの生活に取り入れるべく努力すること、このことが真の国際交流ではないでしょうか。
 文頭の議員は、今年2週間にわたってドイツを訪問して来られたとのことですので、これから上記のようなことを含めて、学んできたことを議会活動に生かされることと思います。大いに期待したいと思います。

ひららぎ哲也

 27年間の私立高校教員を経て、日本共産党の上越市議会議員になりました。
 学校での教育実践のモットーは「一人ひとりを大切に」。学校の枠を超えて、若者が夢と希望を語れるような上越市を作ろうと、市政改革に挑んでいます。
 明るい街作りは暮らし応援の市政から。市民が主役の上越市政に挑む「ひららぎ哲也」に大きなご支援を!