いまこそ憲法 9

活動日誌
07 /04 2018
 ご無沙汰しておりました。
 選挙とその後片付けなどでばたばたしておりました。
 憲法エッセイを再開したいと思います。
 第17条は、公務員の不法行為に関する規定です。第15条で、公務員の任務について規定していますので、本来は不法行為を行うような人は公務員にふさわしくなく、仮に不法行為を行ったらすぐに罷免などの処分をすべきですが、罷免しても被害を受けた国民が救済されるわけではないので、その救済に関して規定されているということだと思います。
 この条文は、国家賠償法の憲法上の根拠にもなっており、洪水について国の河川管理責任を問うた大東水害訴訟や多摩川水害訴訟、空港の騒音公害に関する大阪国際空港訴訟・厚木基地訴訟、鉄道や道路の騒音等に関する新幹線公害訴訟・国道43号公害訴訟など、多くの訴訟事件で争われました。
 国がやることであっても、不法行為になることはあり得ますので(いや、現状では政権のやることは不法行為の方が多いのではないかとすら言えますので)、その損害については、十分にかつ迅速に救済されなくてはなりません。いちいち裁判で何年も争うのではなく、国民の立場に立ってすぐに救済されるようにすべきではないでしょうか。
 さて、そこで問題になるのは、明らかに不法行為を行ったはずの公務員、それも超高級官僚が断罪されず不起訴になり、損害も救済されないという例があります。(下の記事、7/3しんぶん赤旗)
 ここで損害を受けたのは、全国民であり、国民の政治への信頼というとてつもなく大事なことがないがしろにされるという重大な損害が生じました。この賠償には、政権がすぐに退陣するという措置が必要であると思いますが、みなさんはどうお感じになりますでしょうか。
第17条 何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。
20180704a

いまこそ憲法 8

活動日誌
05 /16 2018
 第16条は、請願権に関する規定です。
 請願は、国民による政治参加が認められず、政治上の言論の自由が確立されていなかった時代には、民情を為政者に訴えあるいは権利の救済を求めるための、ほとんど唯一の手段であったことのことで、明治憲法にも制限付きながら規定があります。
 言ってみれば、請願に関する条文は、かなりの歴史のある条文と言うことになるのでしょうか。
 請願権は、公の機関に対して希望を陳述する権利であり、請願を受けた機関は誠実にそれを処理する義務(請願法第5条)を負うことになりますが、請願内容に応じた措置をとるべき義務を負うことはなく何らかの法律上の効果を派生させるものではありません。公の意思は公の手続で決定されるもので一国民の意思で決定すべきものではないからとされています。
 至極当然のことですが、もう少し深く考えると、請願がより大きな効果を示すようにするためには、一国民の請願ではなく、多数の国民の意思であることを示す必要があると言うことになります。一般的には、国会等に向けての請願は、多数の国民の署名などを添えて提出する例が多いと思いますが、その署名をより多数にすることで、より多くの国民の意思であることを示し、実質的に国会等での議決に間接的に影響を与えるようにすることが必要であるということになります。
 毎年取り組まれている「私学助成の増額を求める請願署名運動」は、1000万筆を超える署名を添えて請願を繰り返してきました。本来は、こうした請願がなくても私学助成は増額されるべきですが、それはともかくとして、こうした大きな運動が背景になって、私学助成が拡充されてきたという歴史があります。
 それだけ、請願権というのは大事だと言うことですね。
 さて、普通地方公共団体(都道府県や市区町村)の議会に請願しようとする際には、地方自治法第124条の規定で、「議員の紹介により請願書を提出しなければならない」とされています。
 この違いは、なんなのでしょうか。国への請願とは性質が異なるのでしょうか。勉強不足でわかりませんが、この規定が、自治体議会への請願をやりにくくしているとすれば、ただすべき問題ではないでしょうか。

第16条 何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。

いまこそ憲法 7

活動日誌
05 /14 2018
 第15条は、公務員のあり方や選び方を規定しています。一つの条文にすぎませんが、内容はかなり広い範囲を規定しています。
 まず、公務員を選んだりやめさせたりすることぶことは国民の権利であることを宣言していますが、これは、それまでの(戦前までの)公務員がいわゆる「お役人様」であって、時の支配者が恣意的に選び手足として使っていたこと、国民を支配し弾圧する役割であったことの反省として、当然とも思われることを明確に宣言したということだと思います。同様に、第2項の「全体の奉仕者」という言及も、国民すべてに奉仕するのが仕事であることを明確にしています。
 ところが、実際には、いわゆる“忖度”で、一部の高級公務員、つまり首相にだけ奉仕する公務員が後を絶ちません。この間、国会で参考人として招致された官僚は、この条文に違反しているということになります。
 第3項では、公務員の選び方について、普通選挙を規定しています。これも、現代の視点では当たり前のことですが、戦前は当たり前ではありませんでした。ともかく、形の上では当たり前になっています。
 この点では、形の上だけでなく、実際の意味でも当たり前な選び方にすることが必要です。憲法のこの規定では、「普通選挙を保障する」としか規定されていませんが、これは、「正当な選挙によって、国民の意思を反映させることを保障する」という立法主旨があろうと思います。しかし、実際には、高級公務員たる自治体の首長を選ぶ際には、資金のあるなしが大きく影響するというゆがんだ選挙制度のために、民意が反映されにくくなっています。これでは、憲法が泣きます。

第15条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

いまこそ憲法 6

活動日誌
05 /13 2018
 一万円札の人は、「天は人上に人を造らず、人の下に人を造らずといへり」と言っていますが、このように、人間はまったく平等で差は無く、まして不当に差別してはいけないということを宣言しているのが、第14条です。
 もっとも、福沢諭吉はその後「征韓論」を唱えて、朝鮮半島の人たちを差別的に扱っていますので、はたして上の言葉を真剣に考えていたのか疑問です。
 上の言葉は、「学問ノススメ」という冊子にある言葉なのですが、その後の主張を読めば少しわかるような気がします。その後に書かれてあるのは、「人の違いは、生まれつきにあるのでなくて、学問に励んだのか、学問に励まなかったのかにあるのだ」となっていますので、結局、人はそれぞれ違うのだ、平等ではないのだという主張になっているようです。
 現在でも、そうした考えはかなり蔓延しているのではないでしょうか。つまり、「人の違いは、努力したか努力してこなかったにあるから、収入が少なかったり暮らしに困っている人は努力が足りないのだ。だから、暮らしを良くしたければ自分で夫力すべきだ」と言うことになります。典型的な「自己責任」論です。
 この主張で決定的に欠けているのは、努力が実を結ばない人への配慮です。努力して成功した人に限って、「努力しさえすれば必ず成功する」と考え、それ以外のことを想像しません。だから、ちょっとした行き違いで不幸な目に遭った人に対しても、「努力が足りない、自己責任だ」という冷たい目で見ることになるのではないでしょうか。
 また、人間であるからには、傍目で見て努力していないように見えても、誰もが必死になって生きているわけですから、みんなそれぞれ努力しているのではないかとも思います。
 さらに進めると、努力しようが努力しまいと、そんなことに関係なく、人はみんなそれぞれ尊重され、平等であるべきです。
 憲法の規定とはちょっと主旨がずれたようですが、第14条は、そうした努力の有無にかかわらずすべての人について、「法の下に平等であって、差別されない」ことを宣言しているはずです。日本人として誇るべき条文の一つであると思います。

第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

いまこそ憲法 5

活動日誌
05 /12 2018
 次の第13条には、「幸福追求権」が明記されています。この権利については、当初、憲法に具体的に定められている権利の総称にすぎないとして具体的権利を認めないとする学説があったらしいのですが、現在では具体的な権利を認める説が通説とのことです。例えば、肖像権などがそのひとつです。個々具体的な権利については、これからもその社会の状況に応じて広く認められるようになるものが出てくるのではないかと思います。つまり、その時代や社会の変化に応じて、広く世論として認められる権利が、この条文でしっかりと保障されていると言えます。
 したがって、重要なことは、「憲法は時代遅れだ」という主張への明確な反論にも成っていると言うことです。よく、「今の憲法は70年以上も前につくられたものであって、当時は社会に認知されていなかった諸権利について書かれていないから、時代遅れであって、改正が必要だ」と言いながら、憲法の根本理念である平和条項までも変えようとする人がいますが、まったくそうではないということです。あの時代に書かれた憲法であっても、将来、いろいろな権利が主張され、認められるようになるであろうことをすでに予測し、それに対応できるようにしているのです。まったくすばらしい条項です。
 これからは、「今の憲法は時代遅れ」という人がいたら、「未来を予測して書かれている第13条を、まず読んでください」と反論しましょう。
第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

ひららぎ哲也

 日本共産党の上越市議会議員を辞職し、県政をめざして日々がんばっています。
 「原発再稼働を許さず、県民の暮らし最優先の県政を」をスローガンに、県政改革に挑んでいます。
 明るい街作りは暮らし応援の政治から。県民が主役の新潟県政に挑む「ひららぎ哲也」に大きなご支援を!